lightness flatness softness #2

lightness flatness softness #2

text by yosuke komiyama

My interest in lightness resulted in my master thesis, “about the receipt process of “light construction” in an architectural situation of Britain in the 19th century” in 2007. I researched about early iron construction in UK (1840s ? 1890s) to look for the origin of lightness. I would like to spend a couple of posts to explore this topic further.

軽い建築への興味から始まり、修士論文では『19世紀英国の建築状況における軽い建築の受容過程について』として、1840?1890年代のイギリスの初期鉄骨造建築の発展とそこに見られる軽い建築の起源を追いました。修士論文では追いきれなかったことをこの場所を使ってさらに補完していければと考えています。

0  建築がモノへと回帰する

「君は、自分の建物の重量を知っているかい?」これは、イギリスのハイテック建築家N.フォスターが、後に彼の代表作となるセインズベリーセンターの現場を訪れた際に、同行したR.B.フラーから質問されたとされる問いである。部材質量あたりの性能を高めて軽量な構造を目指すハイテックの思想は、現代におけるサステイナブル・デザインのエネルギー志向でアクティブな一翼を担っている。軽い建築を考えること、それは建築を成り立たせている仕組みや技術に意識的になること。19世紀に生まれる鉄骨造建築は、柱とまぐさ、量塊と空間の比例といった伝統的な建築のコンセプトと真っ向から対立するものであり、lightはslight薄っぺらとして揶揄されることもあった。しかし軽さというのは、重量があって初めて実感されるものなのであり、社会的要請に基づいた当時の技術力における最先端なハイテク建築だったはずである。軽い建築、それは、軽快で、軽量で、(そして軽薄な?)建築。以下、19世紀英国を題材に、初期鉄骨造建築の成立背景と受容過程、結果と影響を追っていく。

1  受容の前提条件として

技術の互換性

技術の互換性に基いた、異種産業間や海外への技術移転が、初期鉄骨造建築の進展に深く寄与した。1843年のbuilder誌に象徴的な二つの記事が記載されている。ひとつは飛行機の記事。鳥と人間の筋肉の相対的重さの隔たりから、人間が筋力を使って羽ばたいても空を飛ぶことは不可能であることはすでに知られていたが、鳥の飛行の原理を再現し機械的動力で翼を羽ばたく試みは18世紀末までつづいた。19世紀には、分離された揚力と推力を、それぞれ固定翼と推進装置(=プロペラ)に託しての飛行が試みられるようになるが、これもそうした試みの一つであった。もう一つは、アイアン・パレス。アフリカ・ナイジェリアの王エヤムボのためにリヴァプールの鉄商人によって建造されたという鉄製の宮殿建築である。鉄骨造建築のプレファブリケーションは1850年代ころまでにカタログ化され、住宅ばかりではなく、灯台や工場、教会までが植民地を中心に海外に輸出されていた。また、同じ鉄という素材を通して、技術移転も容易になった。技術には互換性があり、技術者は産業間を容易に越境できた。ある分野の発展が他の分野の進展さえも促してしまう仕組みであった。進化という言葉自体はもともと胚の成長をさしていたものだったが、それが拡大解釈されるようになったのも、19世紀中葉であった。鉄道と蒸気船によるネットワークが世界中を結び始めていた。

数量化と比較

事象を相対化し進歩の具合を客観的に評価する手法の誕生も19世紀の特徴であった。政治算術と称し国力を数値化して他の帝国主義諸国と比較することが行われた。エネルギー保存則や質量保存則が市民権を得るのも19世紀である。蒸気機関の登場は熱を力に変え不可視なるものにも評価基準を与えた。鉄骨造の設計図面には、断面詳細図とともにその保証荷重が記載された。規格化標準化されたカタログのなかでは、寸法や強度は数値であらわされ、実物を目にすることなく比較検討することができるようになった。万国博覧会のクリスタル・パレスの空間は二種類の階高と三種類の梁スパンのみで構成されていた。モノの重量は、資源の採取と輸送にかかる時間とコストによって意識される。イギリスは中世以来、常に石炭を採掘し消費してきた。18世紀後半、揚水作業に蒸気力が導入されると、作業の安全性向上とともに、採掘がさらに深くまで可能になった。石炭が鉄の大量生産と鉄道の拡張を可能にし、鉄道が大建築物と橋梁構造物を必要とした。鉄道は、17世紀以来石炭鉱区で採用されてきたトラム軌道の発展形である。同一の牽引力でより多くの石炭を運ぶことができた。最初レールはオーク材の梁でできていたが、磨耗を減らすために鉄の保護板が取り付けられるようになり、18世紀の終わりには鋳鉄製のレールへと変わる。19世紀初期にはより安全な鍛鉄製のものへと代わる。丈夫な鋼の登場はジョイント数を減らし、客車の快適性向上と、車両の走行速度のアップに貢献した。1830年には、リヴァプールとマンチェスター間の48キロメートルが一時間で結ばれている。

技術と教育

イギリスでは、産業革命の技術革新は各工業の現場における熟練職人たちの経験と徒弟制度が生み出したものであって、学校教育とは無関係のものであった。19世紀になっても、社会の支配的な価値基準は人文主義を主体とするジェントルマンの教養にあり、1875年にケンブリッジに工学の講座が開かれるまで、工学は学位を与えるべき学課とは考えられていなかった。とはいえ、非国教派は技術教育に積極的だったと言われている。18世紀初頭、非国教派のクエイカー教徒はイギリスで稼動していた製鉄工場の半分を所有または経営し、自らの勢力圏内に科学を振興するアカデミーを建設していく。こうした非国教派の平和的科学振興の中から、アイアンブリッジを建設したダービー家が登場する。フランスのエコール・ポリテクニークはもともと軍の技術者学校である。イギリスでも技術者の職能組織はRIBA(1834)より早くから組織されていたが、教育機関とは結びつかなかった。フランスでは現場の技術よりも理論的側面が重んじられた。同じくイギリスを追う立場であったドイツでは産業を支えるための専門家の育成という点に重点がおかれた。

精錬法の変遷

自然界に酸化物の状態で存在している鉄は、炭素で還元して取り出される。16世紀の早期産業革命期には、木炭を使った製鉄が行われていたため、製鉄のための伐採で森林資源は枯渇し、同じく木材を資源としていた建築・造船等の産業も停滞することとなった。1709年のA.ダービーによるコークス製鉄法は、素材としての鉄とエネルギー源の石炭を分離することで、他の産業にも相乗的な波及効果を持ったのである。鉄骨造建築の材質は、その鉄成分中の炭素含有量の違いによって鋳鉄・錬鉄・鋼の三段階に大別できる。高炉でまず生産される鉄は銑鉄(それを鋳造した製品が鋳鉄)であり、それをさらに酸化反応で精錬したものが炭素量の少ない錬鉄(それを鍛錬した製品が鍛鉄)であり、さらにその間の範囲で炭素量の調整をしたものが各種の鋼である。19世紀の初め、構造用部材は鋳鉄製であったが、蒸気機関の導入とより精緻な精錬法の確立、そして圧延技術の進歩によって安価な錬鉄製品を大量に供給可能になった。

鋳鉄の内部構造は石のように粒状であるため、圧縮には強いが引張りには弱い。錬鉄は木のように繊維質であるため、圧縮にも引張りにも強く延性がある。鋳鉄のように一つ一つ鋳型に流して一品生産する鋳鉄は自由に形づくることができるため装飾に適している一方で、定まった断面形で圧延して必要な長さで切り取れる錬鉄は、規格化・標準化と相性がよい。また、そうしたパーツの組み合わせによって複雑な断面をつくることも行われた。錬鉄の部材は形のバリエーションに欠けていたため、錬鉄の構造物はしばしばおおざっぱで荒々しく見えてしまったため、鋳鉄と錬鉄が混用される場合には、自由に鋳造できる鋳鉄部分にはしばしば装飾が施された。鋼製品は1880年以降に生産量と種類が急速に増え始める。BSIが1901年に構造用鋼断面の標準規格を定めるまでは、個々の製造業者が製造した鋼製品の種類は必要以上に膨れ上がっていた。ドーマン・ロング商会の1887年の仕様書では、鋳鉄よりも品質が安定していると考えられていた錬鉄と鋼には、鋳鉄よりも低い安全率が採用されている。

接合法の変遷

アイアンブリッジの接合部には英国の伝統的な木構造の手法が用いられている。他にも初期の橋梁建築では、可鍛鉄のバンドや、みぞと実はぎによる差込みが接合部に用いられている。万国博覧会のクリスタル・パレスにおいてもまだ、細部には木造のディテールが踏襲されている。このことは鋳鉄部材製造の際の正確な鋳込み技術を裏付ける一方で、その最初期において鉄骨造が独自の構法技術をもたなかったことを意味している。鋳鉄柱はたいてい中空の円筒型で用いられ、梁を受けてその上の柱を支えるための軸受けが設けられた。鋳鉄造においては、圧縮力の伝達のための適正な接触面を確保できるように、部材間は平面で接触している必要がある。そのため鋳造面を平滑に機械加工したり、接合部材間に組積造同様の目地材や鉛の当てものを挿入する必要があった。ゆえに現代的な意味での鉄骨フレームを完成は、19世紀の後半に鋳鉄梁に取って代わったリヴェット打ちされた錬鉄製フレームの登場によって完成する。大きなサイズになると、アングルとプレートで構成されリヴェット打ち加工された桁が利用され、また時には、アングルは小さなプレートからなるラチス状になっていた。1859年には、W.ランキンの解説書のなかで、リヴェットの強度が定義され、1885年になると、ドイツでリヴェットデザインの具体的事例集成が出版されている。1839年にH.モーズリが毎分30個の穴をあける穿孔機を発明し、1850年にはW.フェアバーンが、蒸気ハンマーを改良してリヴェット打ち機をつくっている。鋳鉄はその炭素含有量の多さゆえ高温に熱すると割れてしまうため、錬鉄が登場するまでは溶接は不可能だった。溶接には、構造を単純化できるという利点がある。ボルト継ぎ手の場合は両側を挟む板が必要であるし、その板に穴を正確にあけなくてはならない。溶接にはそれらは必要ないから、使用する材料が少なくて軽くなるし、製品の加工も少なくてすむ。アーク溶接法は19世紀の終わりに発明され、まず造船業で適用された後に建築でも使われるようになったが、それ以前にも、部材を炉内で突き合わせる手段での初歩的な溶接合は行われていた。

越境する技術と技術者

蒸気機関においては、真鍮製のシリンダー、銅製のボイラー、木製のポンプ枠といったものが、より安価で高温・高圧に耐えられる丈夫な鉄に置き換えられていくと、機関内の圧力は以前よりも増し、性能向上につながっていった。イギリスの初期の建造技術者は、鉄道技術者であり、機械技術者でもあった。ある者は蒸気機関と灯台建設、またある者は蒸気機関車とトンネル建設、J.スティーブンソンは鉱山労働者・火夫助手・機関手・蒸気機関・蒸気機関車・機関車工場建設・鉄道・トンネル・橋梁技術者といった具合であった。鉄は建設材料であると同時に、より普遍的な構造材料だったからである。また鉄鋼業と鉄道業、建築業の関係を端的に表している例にアメリカの鉄鋼王A.カーネギーが挙げられる。1880年代後半に鉄道需要の頭打ちを予見した鉄鋼王カーネギーは建築用構造材に重点を移行する。果たして、90年代以降アメリカでは鋼構造の高層建築が盛んになったのであった。鉄道建設請負業者すなわちコントラクターたちも、やがて自ら鉄道を計画し、建設するようになる。1840年代の鉄道ブームまでは、コントラクターの活動基盤が確立する期間であった。1850年代には、国内における鉄道建設熱が収束し、コントラクターの活動の舞台は海外に移される。1860年代になると自己の利害を貫徹するために自ら国内の鉄道建設を計画するようになっていく。19世紀の温室建築では、木製枠よりも軽くスリムな構造の探求と、太陽光は直角に入射したときのみガラスを透過するという誤解によって、カーブした細いガラスグレージングが採用された。キューガーデンの計画では、R.ターナーが、造船分野で特許を取得したばかりの錬鉄製甲板梁を温室の骨組みに転用している。

以下続く

2 受容過程におけるクルドサックな技術

2-1 鋳鉄梁断面の変遷

2-2 耐火建築と鉄骨フレーム構造

2-3 プレファブリケーションとイギリスの世界戦略

3 「軽い建築」の受容

3-1 構造における真実性

3-2 装飾や色彩とともに

4 建築の技術と歴史 その直線的ではない進歩について